『土を喰らう日々』
—わが精進十二ヵ月—
水上勉著 新潮文庫
12p.〜
くわいを焼くのは、この頃からのぼくのレパートリーだった。…ぼくは、よく洗って、七輪にもち焼き網をおいて焼いたのだった。…いまのテレビ番組の料理など、めったに見ないものの、時に目に入って驚くことだが、くわいなども、くわいなども皮は包丁でむかれる。…しかも、くわいでもっとも、にがみもあって、甘みのある皮にちかいあたりが捨てられるととあっては、もったいないのだ。…これでは芋が泣く。というよりは、つい先ほどまで、雪の下の畝の穴にいたのだ。冬じゅう芋をあたためて、香りを育てていた土が泣くだろう。
米を淘り菜等を調ふるに、自ら手づから親しく見、精勤誠心にして作せ。
一念も疎怠緩慢にして、一事をば管看し、一事をば管看せざるべからず。
功徳海中一滴も也た譲ること莫かれ、善根山上一塵も亦積むべき歟。
道元禅師の「典座教訓」に出てくる文章である。…芋の皮一ときれだって無駄にすることは、仏弟子として落第なのだ。
30p.〜
老師は怒るふうでもなく、「いちばん、うまいとこを捨ててしもたらあかんがな」
といわれた。こういうことも道元禅師の次のようなことばとかさなるのである。
凡そ物色を調辦するに、凡眼を以て観ること莫かれ、凡情を以て念ふこと莫かれ。
一茎草を拈じて宝王刹を建て、一微塵に入って大法輪を転ぜよ。
所謂縦ひ莆菜羹を作るの時も、嫌厭軽忽の心を生ずべからず。
縦ひ頭乳羹を作るの時も、喜躍歓悦の心を生ずべからず。
既に耽着無し。
何ぞ悪意有らん。
然れば則ち麤に向ふと雖も全く怠慢なく、細に逢ふと雖も弥精進有るべし。
切に物を逐うて心を変ずること莫かれ。
物を逐うて心を変じ、人に順って詞を改むるは、是れ道人に非らざるなり。
まことにきびしい。ほうれん草の葉もへたも同じなのである。どっちを尊び、どっちをさげすむことがあってはならぬと教えられてある。
74p.〜
…夏には褌ひとつで働いていた父が、弁当箱に味噌だけ入れて、山へ入り、山菜の類を収穫して、サイにしてぱくついていた行為は、真の醍醐味の顕現かと思いたくなる。ぼくが、さかしらに、他の人の弁当をのぞいて、父を哀れと思ったのは、凡愚の子のゆえだう。鰯も鯛も、山うども、たらの芽も、真心の舌には一つの味である。どれを蔑むことが出来ようか。
76p.〜
大げさな禅師よ、という人がいるかもしれない。たしかに、ぼくもそのように思わぬこともないのだが、しかし、そう思う時は、食事というものを、人にあずけた時に発していないか。つまり、人につくってもらい、人にさしだしてもらう食事になれてきたために、心をつくしてつくる時間に、内面におきる大事の思想について無縁となった気配が濃いのである。
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